「術と道」、これは「技と道」と題してもよい。「芸と道」であったとしてもよい。人は術・技・芸を、より精神的普遍性の次元へ止揚しようとするとき、こうした話題を好むと思う。今回は本題の「術と道」として、話を進める。

 従って人が「術と道」というとき、この二つの概念は、並列でも対立でもない。術より道が、上位概念となっている。こうした場合より正確には、「術から道へ」という表現の方が正確になる。しかし私は、こうした表現を好まない。「術と道」に、少し 距離をおいているように思えるからだ。

 答えは何百年も前から決まっていて、それを何人も覆すことはできない。「術と道」これを並列することも、距離をおくことも、道を術の上位とすることも、全てが最初から間違っているからである。スタートが間違った思索は、詭弁でも使わない限り結果が正解になることはない。

 では答えは何か?「求道無限」(みちをもとめるにかぎりなし)。仮に「これが道だ、普遍性だ、発見した!」と思っても、その瞬間に雲散霧消してしまう。これが無限だ。

 山岡鉄舟居士は「剣と禅」、剣で術を極め禅で心を極めたと人は言う。世阿弥は風姿花伝、足利義満の庇護を受け富と名声を得るが、足利義教に弾圧を受け佐渡へ島流し。庇護と島流しの落差に、境地を深めたと人は言う。異質な世界に触れることで、開かれる眼がある。それもそうだろうがはたしてどうだろう、ご本人の視点から考えたたとすると。

 山岡鉄舟居士にとって、剣と禅の区別はない。いやそれ以外、書も女色も酒もなんでも徹底的にやった。奥さんが「女遊びをやめないと、今、この場で割腹自殺する!」と真剣に言うのを聞いて、女色はやめたらしい。とにかく限りなくだ。

 風姿花伝、これは世界の名著。私にとっても座右の書。足利義満に庇護を受け、次の義持は田楽好み、徐々に庇護を受けられなくなる。その次の義教に弾圧を受ける。世阿弥の佐渡への島流しは1434年。「金島書」は1436年著。風姿花伝は義持の時代、1400年ごろから書き始め、その後20年かけて全7編を仕上げた。世阿弥は佐渡以前から、ただ前を見て徹底的に歩んでいたに過ぎない。

 ならば道はどこにあるのか?術・技・芸、そのものが道だ。分離したところにあるのではない。術・技・芸を限りなく求める姿に、かろうじて道がある可能性があるに過ぎない。可能性でしかない、自分で決められるものではない。道元禅師は「随所に主となれば立処皆真」(ずいしょにしゅとなればりっしょかいしん)と喝破されている。術に主となり、技に主となり、芸に主となり外に求めず。それぞれ立処、全てが真である。

 ではそれを、誰が決めるのか?それは人様・時代が決めること。術を求めて生きる。そして死ぬ。立方体の箱の収まる。そして何年か経ったら、人は言う。「あの人の術は一流だったけど、やっていることのレベルは低かったね」とか。「あの人は大言壮語、立派なことを書いたけど、術は三流だったね」とか。ではなんと言われるところに、道があるのだろう?それは私も分からない。

 しかしなんとなくだが、「とにもかくにも、あの時期に出会ったあの人のおかげで、今の私がある」。そう言われれば本望ではないかと思う。

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