楽心館入門記


最終更新日 2022年10月19日


法政大学教授・文芸評論家 田中和生様

2022年10月19日


入門十二年目の楽心館

土曜日の午後十三時半から、文京区スポーツセンターにある柔道場で、小学五年生になる次男と親子クラスで合気道の稽古をしている。ただ大学教員という仕事柄、土曜に仕事が入ることもあり、毎週皆勤というわけではない。わたしが行けないときには、子どもだけでも稽古に行って欲しいと思っていたが、末っ子の次男も最近ようやくひとりで参加できるようになってきた。
 思い返してみれば、十二年前にまだ保育園児だった長男と一緒におなじ親子クラスに通いはじめ、長男の塾通いが忙しくなった小学五年生のときには、大人クラスで剣術の稽古に親子で参加させてもらったこともあった。そのあと入れ替わりで、小学校四年生になっていた長女と一緒に親子クラスに通うようになり、二年近く稽古をした。
 さらにそのあと、やはり長女の塾通いがきっかけとなって、末っ子の次男と入れ替わりとなった。次男は小学二年生からはじめたので、最初はわりにのんびり白帯で稽古をしていたのだが、一度帯の色が変わると興味が出てきた様子で、どんどん貪欲に新しい技に挑戦するようになった。
 現在は次男も四年目で青帯になり、身体も大きくなってきたので、長男と長女のお古だった稽古着も新しくした。しかもどういう風の吹き回しか、今度は中学三年生になった長女が「武闘派の中学生になる!」と言い出し、今年から四年ぶりに稽古に復帰し、大人クラスに通っている。だからあらためて考えると、楽心館に通っている期間がそのまま子どもたちの成長している時期だと実感する。
 わたしはその間、髪が後退したりいい加減だった性格に拍車がかかったり、成長しているのかどうかよくわからない。けれども稽古は以前と変わらずおもしろいと感じている。それで以下、白帯の経験者として、合気道の技についていま感じていることを書いておきたい。



 楽心館の親子クラスは、大人クラスとは取り組み方が違うので、習得する技の順番などはたぶんかなり違っているが、いちおう十年以上も通っているので、ある程度の技は経験していると思う。子どもは一教から二教に進んで、それ以上はあまりやらないが、三教、四教、五教はやったことがないが六教まで、館長である石川先生から教わった。
 そこまで取り組んでみて、しみじみ難しいと思うのが、一教である。もちろん最初に習う技の一つであることからもわかるように、技のかけ方自体はそれほど難しくない。しかし六教までやって一周したつもりで戻ってきて、三教はわりとちゃんとかけられるようになったのだから一教はできるよな、というつもりでかけてみると、なんだか相手を崩しているという感じがしないのである。
 それで少し考えてみると、一教から二教へ、また二教から三教へと進むに連れ、技は複雑になっていくのだが、実は相手の崩し方自体は限定されていくことになる。わたしの場合、三教は比較的相手を崩していると感じやすい技なのだが、しかしそれはかなり限定された状態で崩しているのであって、その崩し方を応用できる場面はそれほど多くないように思う。もちろん最初はさっぱりかけ方がわからなかった三教だが、だからそれがある程度かけられるようになったからと言って、一教でうまく相手を崩せるという技の因果関係にはなっていないのである。
 むしろ三教は一教で相手を崩してから、さらに無力化するためのバリエーションの一つであり、先に一教で相手を崩しているということが大切である。そうすると三教をちゃんとかけられることより、一教をちゃんとかけられる方が優先順位は高いということになる。しっかりとした一教がかけられるようになりたいと思う。
 次に難しいと感じているのは、四教である。これは四方投げのときにおなじようなつかみ方をすることもあるし、応用する範囲が広い技である気がする。しかし技をかけられていると自分が崩されていることはよくわかるのだが、わたしの方は技をかけて相手を崩しているという感じがなかなかしない。
 たまに長女と一緒に、親子クラスのあとにある大人クラスに出てみると、黒帯でも四教は得意という人と得意ではないという人がいるので、あるいは自分は得意ではない方に分類されるのかもしれない。それでも上腕の橈骨をきめる技だということで、人体解剖図を見ながら橈骨をきめるイメージをつかもうとしたり、自分で自分の橈骨の位置を確かめようとしたりしているが、いまのところなかなか上手くいかない。
 上手くいかないということでは、臂力の養成もそうである。できるだけ予備動作のない動きで、両手で自分の片腕をつかんでいる相手を崩そうとするイメージで動こうとするのだが、だいたい相手に止められてしまう。石川先生が技をかけている様子を見ていると、どこにも力が入っている感じはなく、自然な動きで相手を崩している。
 頭でそれはわかるのだが、腕をつかまれているという状況から自然に動く、ということがとても難しい。どうしても振りほどこうとか引っ張ろうとか押し込もうとする動きが出てきて、それは相手のほどかれまいとか引き戻そうとか押し負けないという動きを引き出してしまう。いまは「あっ、一万円札が落ちていた!」という気持ちで技をかけようとしているが、なにかが根本的に間違っている気がする。
 こういうことで苦労していると、やはり合気道はどこかで剣術の稽古をしなくてはならないのではないかと思う。大人クラスに出るとかならず剣術の時間があり、腕をつかってやっていたことを木刀でやるような練習をする。石川先生はよく、合気道は剣をつかわない剣術だと言われるが、だとすると剣術のイメージが先にあって身体を動かすことが、合気道では合理的なのかもしれない。
 でもたまに大人クラスで木刀を振ると、重いし怖いし、技は難しい。もし難しい剣術を経由しないと、自分にとって難しい合気道の技がうまくかけられないということなら、いずれにしても楽な道はないということである。やはり目の前にあることにコツコツと取り組み、少しずつ自分に出来ることを増やしていくしかないのかな、などと考えているこの頃である。



 長く親子クラスに子どもと一緒に通っていて、よかったと感じたことを思い出してみると、意外なことに小学校での運動会が強く印象に残っている。最近の運動会では、だいたい全体体操のような演技が入るが、このときの子どもたちの動きがとてもよいように見えたからである。これは親のひいき目もあるかもしれないが、合気道の身体運用は子どもたちに手足を合理的に動かすことを知らず知らずのうちに覚えさせているのだと思う。
 そのことは長男が小学五年か六年のときにやったソーラン節でも感じたし、つい先日、次男の小学校であった体操会のときにも思った。長女は小学生のときはバレエ教室にも通っていたので当然という気がしたが、秋晴れの空の下、次男が全体体操で無駄のないキビキビした動きをしているのを見ていると、ふと長男のソーラン節を連想した。そのときは合気道のおかげかどうか半信半疑だったのだが、長男と次男の所作に影響していそうな共通した習い事は合気道しかない。高校二年生となった長男は、いまはダンスに夢中になっているが、あるいはそれも手足を合理的に動かすことを合気道で覚えた延長線上で取り組んでいるのかもしれない。

 こうして子どもたちを成長させてもらい、自分は悩み事を多くしてもらった楽心館での十二年である。そのことに感謝し、これからも稽古をしていきたい。


法政大学准教授・文芸評論家 田中和生様

2014年10月8日

 先日の秋分の日に行われた秋季子供審査会は、千葉市武道館で行われた午後の回に参加してきた。いつもは東京の中野体育館で行われる午前の回に参加しているが、どうしても午前中の予定がつかなかったのである。

 千葉の審査会は、なぜか中野より女の子の割合が多い気がした。みんな一生懸命だったが、上の息子とおなじ紫帯に挑戦する子どもたちを見ていたら、びっくりするほど美しい技を見せてくれた女の子がいた。柔道場の足元に空いた窓から、心地よい風が入ってくる秋晴れの日だった。




 ふだんは文京区にあるスポーツセンター内で土曜の午後に行われている、茗荷谷の親子クラスで小学三年生になる息子と一緒に稽古をしている。合気道をはじめたのは、息子が保育園の年長組だった冬のことで、もうすぐ四年目になる。

 わたしは東京都に住んでもう二十年以上になるが、もともとは富山県の田んぼの真ん中が出身である。息子が生まれて大きくなっていくに連れて、当時はマンション住まいだったせいもあり、力いっぱい走ったり思い切り身体を動かしたりする機会が意外に少ないことが、なんだか気になりはじめた。それで身体を動かす習い事をさせたいなあと考えていたところ、武道なら身体を動かすと同時に余っている力の使い方も学べるのではないかと思いついた。わたし自身は高校生のときに柔道マンガが流行っていたのに影響されて、柔道部に入って講道館の初段を富山県で取ったことがある。


 それからなんとなく近所の武道教室を探しはじめて、土曜の午後にある楽心館の合気道教室を見つけた。下の娘がまだ小さくて、妻がそちらの世話に気を取られていた時期でもあり、自由に動き回りたい年齢になった息子の相手をするのは、休日にはわたしの役目だった。水泳教室に行くことも検討したが、子どもを送りに行って自分はすることがないというのも面白くないと考えていたところで、なによりその楽心館に小さな子どものための親子クラスがあるというのが気に入った。わたし自身も、講道館柔道がかつて敗戦後の日本におけるGHQの指導下で解体されないよう、型稽古中心から乱取り中心のスポーツ化した武道になったという内容の本を読んでいたこともあり、型稽古中心でつづけられている合気道に興味をもっていた。


 それで息子が五歳になった年の冬休みに、館長の石川先生に連絡をして見学させていただいた。土日に習い事をすること自体は決めていたので、そのまま入門するつもりでいたが、胴着などは一ヶ月ほど経ってつづけられることがわかってから揃えてください、という説明をいただいた。見学の日にいちばん驚いたのは、このつづけたい人だけがつづけてくださいという徹底して開放的な門人本位の考え方と、それらのことを穏やかな話しぶりで伝えてくださった初心者の親子クラス担当の先生が、石川館長その人であったことである。


 それから通いはじめて、無事に一ヶ月が経って名前入りの胴着もお願いした。高校の部活動での柔道としか比べられないが、わたしには合気道の稽古はおもしろいことばかりだった。以下は門人の方には当たり前のことばかりだろうが、初心者の感想として箇条書きにして記しておきたい。

          


 まず男女が一緒に稽古すること。柔道なら体格差が大きいし、異性とは練習でも組みにくいだろう。でも護身術である合気道は、女性なら体格の違う男性に受けてもらう方が、実はより本質的な稽古になりうる。どうしても出られなかった次の週に、振り替えとして大人だけのクラスに参加させてもらったとき、まだはじめたばかりだったわたしは中学生の女の子に力が入りすぎだと笑われたことを思い出す。胴着の下にTシャツを着るのがエチケットであるということも、そのときに知った。


 次に型稽古なので、少しでも先にはじめてより経験の多い人がそうではない人に対して教えること。だから親子クラスで初心者の大人は、先生と組むとき以外は先輩である子どもに教えを請うのである。わたしも自分の子どもの前で、ちゃんとした親にならなければならないと少し無理をしていたのだろう、稽古をはじめて小さな子どもに教わる立場になったときの自由さは新鮮だった。年齢も人生経験も関係なく、よく知っている人から虚心になにかを教わるという経験は、いつだって愉しい。


 それから技を改善するために、できるかぎりの言葉を駆使すること。型稽古は教える方から見れば、技をやってみせて受けてあげることのくり返しだが、教わる方から言わせてもらえば、見せてもらってすぐできるようになるなら、なんの世話もない。だいたい見た目の動きを似せようとするのだけれど、それでは技の内実が大きく違っている。その違いを教えてくれるのが言葉である。技ができている人はできていない人にどこが違うのかできるだけ説明し、できていない人はわからないところをできている人に尋ねる。すると型稽古は言葉の訓練でもあり、身体を動かしに行って言葉を交わしているのである。しかしわたしはこの会話から、いかに身体の動きを言葉することが難しいか、また言葉でいかに身体の動きが変わるのかを知った。身体そのものは言葉にならないけれど、たぶん言葉は身体の一部なのである。


 最後に、技の動きの結果から逆算した途中の動きはだいたい間違っていること。これは最近とくによくそう思うようになったのだが、大人はいままで生きて蓄積してきた経験のなかで、自分なりの合理的な身体の動きのイメージを脳内にもっている。しかしその脳内のイメージほど合気道の稽古の邪魔をするものはない。そうしてわたしが近代的な生活のなかで身につけてきた動きは、どうやら合気道が理想とする動きとはまったく違うらしいということはわかってきたのだが、悲しいかなその脳内のイメージが邪魔をする。技の動きの結果から、そのイメージにしたがって合理的と思える動きを身体がしようとすると、それはたいてい合気道としては「合理的」ではない。だから技がよくなったと先生にほめられるときは、意識してそのイメージを裏切るような動きをしている。そしてその「合理性」は、毎日木刀を振るような生活をすれば身についてくるらしいということまでは見当がついてきたが、わたしはそれをする手前の初心者の立場に憩っているところである。

          


 親子クラスで練習していていつも感心するのは、大人よりよほど子どもの方が技の飲み込みが早いということであり、また余計な経験をしていないのですぐに「合理的」な動きができてしまうということである。そしてこれはやっとそう見えるようになってきたのだが、合気道として「合理的」な動きは無理がなくて美しい。その「合理性」は、相手より体格や腕力で上回って圧倒するという近代的な合理性とはまったく異質だが、しかし身につければ体格や腕力で劣っていても相手を圧倒できるという点で、たしかに理に適っている。


 千葉の審査会で見た女の子の動きは間違いなくそうだったが、その動きの「美しさ」こそ、三十代で入門したわたしが少しずつでも稽古をつづけ、言葉の力を借りて、子どもに教わりながら手に入れたいと思っているものである。


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